ぐうたらママのナインオール

仕事(臨時職員)と娘(小学5年生)と卓球(趣味)と

おはようって優しく言いたいな

私は高校時代の詰め込み教育のおかげで、なんとか志望大学に合格しました。

 

その後は、やや燃え尽き症候群といいますか、たいして勉強もせず、バイトも部活も中途半端に終わってしまった気がします。

 

もちっと、勉強しとけば良かったな。いや、何かを真剣にやっとけば良かったな。まさに後悔先に立たずです。

 

日本の3月は卒業や合格発表など、人生の大きな出来事が続きます。みんなが笑顔の旅立ちではない、それも事実です。

 

3.11、あの地震は私の中で無声映画のワンシーンのように、モノクロでかつスローモーションで記憶されているようです。

 

言葉も音もありません。胸をえぐられるような痛みを伴いながら、映像を見てはいけない、でも目をそらすこともできない、と葛藤しながら、1歳の娘を抱きしめていました。涙が止まりませんでした。

 

とても不謹慎かも知れませんが、私が現地にいたら、娘が現地にいたら、旦那が現地にいたら、と自己中心にシュミレーションして、ただただ涙が止まりませんでした。

 

遠い福岡です。市や友人の呼びかけもあり、支援物資をわずかながら提供しました。粉ミルクとおしりふきを現地に届けたくて。

 

とにかく赤ちゃんとママさんに届けたくて。

 

この震えるような思いは、私がママになったからなのでしょう。

 

実は2005年3月20日に、最大震度6弱の福岡西方沖地震を経験しました。

 

当時福岡市内のホテル勤務、独身、妹と2人暮らし。休日なのに珍しく休みで、11時近くまでベッドの中でした。

 

まるで遊園地のアトラクションのように、マンション7階の部屋が揺れました。幸い大きな被害もなく、ホッとしたのも束の間。

 

なんと私は不安がる妹を残して、自転車をこぎ職場へ向かったのです。ホテルではその日20件以上の結婚式が予定されており、混乱しているに違いない!と。私も行かなきゃ!と。

 

途中の道路陥没、液状化現象を自転車で避けながら職場へたどり着きました。レストランの後輩は、家の水道管が破裂して大変なのにそれでも出勤していました。

 

着いた時にはホテル全体が混乱に近く、避難誘導で34階から階段で降りるは、何人もの花嫁さんがウエディングドレスのまま外に出て呆然とするは、親族一同で泣き出すは。

 

私は制服に着替えず、名札だけを胸に付け、ジーパンのまま事務所に飛び込みました。そこで交通情報を調べてホワイトボードに書き、随時各部署へ連絡する係となりました。情報が錯綜する上に、お客様からの問い合わせも殺到し、どの位作業をしていたか覚えていません。

 

そして恐ろしいことに、その間マンションに残してきた妹の事など気にする余地もありませんでした。それが当時の私…。

 

今は家族が一番大切。もちろん自分も一番大切。何が起こるかは 分からないから、明日のおはようは、優しく言ってみようと思います。

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※おまけ

ネットでやってる全国統一防災模試、なかなかよく出来てます。もっくんが出ているやつです。私は70点でした。

11日時点で、福岡県の得点は全国最下位でした。ショックです。皆さんもどうぞ。

https://bosai.yahoo-net.jp/201903/